「井戸の外の正常人」は、疲れるし孤独である

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疲れ果てた井戸の外の正常人



井の中の蛙」が多数をなす世界では、少数の「正常人」は疲れる。
新聞などのメディアに出てくる様々な報道を念のため調べていると、
「現状打開のため、未来志向の外交戦略の策定をして…」から始まる、
期待を持たせるような記事があったりする。



「やはり論説委員は違うな」「さすが大学教授」「さすが外交専門家」
と一瞬は思う。
しかし、「一瞬」だ。
記事のはじめの部分にある常識と理性、切れ味のようなものは、結論部分
になるとほとんどが消える。




「これによって、宇宙が韓国を中心に回っているという事実を相手がもっと
容易に理解できるよう、万全を尽くさなくてはならない」というような結論
がほとんどだからである。
「井戸の中」から出てくるよう苦言を言う場合はほとんどない。
残るのは「虚脱」だけだ。




はじめから井戸の中で生まれて、記者になり、教授にもなり、専門家にも
なった彼らだということ、そんな彼らが文章を書く機会を得たに過ぎない
のだという現実をうっかり忘れ、油断(無駄な期待)してしまったからである。




世の中を知らない井の中の記者、井の中の教授、井の中の専門家などに呼応
できる井の中の蛙が、韓国の一般人の圧倒的多数をなしている。
「井の中の風潮」に包まれた彼らの気勢に耐えなければならない少数の正常人が、
自分の「正しい判断力」を維持す​​るのは疲れる仕事である。




そんな彼らの疲れなど、苦しんだことのない大多数の井の中の蛙には推測すら
できない。ほんの少数の「ナム(他人)の気づかれない」痛みに該当する。
韓国内の「井戸の外の正常人」は、疲れるだけでなく、孤独なのである。



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