『余命一ヶ月の花嫁 追記』
松浦淳のブログ 様
- 作者: TBS「イブニング5」
- 出版社/メーカー: マガジンハウス
- 発売日: 2007/12/13
- メディア: 単行本
- 購入: 2人 クリック: 123回
- この商品を含むブログ (69件) を見る
ネットを散歩していたら、『余命1ヶ月の花嫁』の、あの乳癌で死んでいった女性が
A・V女優だった、と記しているサイトがあった。
彼女の友人として登場してきた女性もA・V女優で、しかもあの男性はその友人
A・V女優の元彼(モトカレ)で、全てのハプニングは実は最初から仕組まれていた
ものではないか、という。
真実は知らない。
だから、A・V女優云々は嘘かもしれない。
しかし、本当だったとして、
<それがどうした>
というのだろう。
彼女がA・V女優だったと仮定しての話だが、では、A・V女優をしていた人間は、
乳癌の悲惨さを訴える活動をしてはいけないとでもいうのだろうか?
話は飛躍しすぎだろうけれど、仮に彼女がA・V女優だったとしたら、
私はマグダラのマリアを連想してしまう。
キリストが愛したたった一人の女性は娼婦だった。
もちろん、『ダヴィンチコード』ではないけれども、そこにはマグダラのマリアを貶めようとする
原始キリスト教とカトリックの陰謀があったのかもしれない。
ただ、聖書でマグダラのマリアが娼婦として描かれていることは事実である。
中世、教会の中に旅人を慰める娼婦がいたところもある、尼僧が娼婦をやっていたのである。
エーコの『バラの名前』で描かれるように、死の恐怖を・人生の無意味さをやわらげて
くれるのがセックスであることは否定できない事実である。
……と、話がどんどん脇道にそれてゆきそうなので、ここでストップ。
あの花嫁衣裳が仕組まれていたことであり、
あの<純愛>が怪しいものであり、
ある思惑に駆られた人々が作り上げたドキュメンタリーだったとしても、それはそれでいい。
たった一つ、どうしようもなく真実のことがあるのだから。
それは、彼女が末期の乳癌であり、彼女が死の恐怖に苦しめられながら、
若さの真ん中で死んでゆかなければならないことに涙しながら、死んでいったという事実である。
あの恋人が嘘でも、あの花嫁衣裳が嘘でも、あの友人達が嘘であったとしても、
彼女が死んでゆくことを<噛みしめながら>残された日々を生ききっていた、
あの表情は・泣き顔や笑い顔や苦悶の顔や溜め息は、みんな真実のものである。
というのも、私はこれまで何十人もの10代、20代の若者が死んでゆくのを見てきたから、
分るのである。
白血病、悪性リンパ腫、再生不良性貧血、胚細胞腫……
舞台でもなく冗談でもなくヤラセでもなく、本当に、死の恐怖に喉を締め付けられながら、
これからが人生の一番楽しいときを迎えたという若者が、次々に死んでいった、
のを診てきたし見てきたし、そして看取ってきた。
で、そうした世界から逃げ出したくなって戦線離脱敵前逃亡という非難を甘んじて受けて、
人間ドック医という<死と関わりにならなくても済むポスト>に避難したのである。
小児がどんどん死んでゆくのを診ていることに耐えられなくなって小児科医を辞めた医者も知っている。
だから、きっと、医者には2種類あるのだと思う。
どんどん患者が死んでゆくのを見ても一層医療に熱を入れて取り組むことのできる素晴らしいタイプ、
と、どんどん患者が死んでゆくのを見ていて落ち込んでへこんで自信を失って放り投げたくなって
患者の死ぬのを(特に若い患者が死ぬのを)見なくてもいいポストへ逃げてゆくタイプ、
の2種類。
で、私はもちろん後者だった。
今でも、第一線で白血病の治療をしている先生方に会うと、ただただ<偉いなー>と声を
漏らすことしか私にはできない。
で、話を戻そう。
彼女がA・V女優だからどうだというのだろう。
乳癌が嘘で、実は彼女は生きて隠れていたというのなら「うまく騙された」と舌打ちする
かもしれないけれども、彼女が死んでいったのは事実ではないか。
死の恐怖と闘いながら、生きていることの歓びを私たちに見せてくれたのは事実ではないか。
A・V女優のどこが悪いというのだろう、どこがいけないとでも?
末期の乳癌になってその姿を見せることによって、女性たちに早期検診早期治療を訴えるのは、
聖心かフェリスの純潔な女学生でなければ許されない役目とでもいうのだろうか?
(そういえば知り合いに聖心卒やフェリスに行っている娘を持つ親たちがいるけれども、
話を聞くと実はトンデモナイ――以下は熟慮の上削除)
A・V女優だったことが本当だったとして、それがそのうちに<ばれる>ことを承知の上で
予測していながら、彼女はテレビ局にコンタクトを取ったのかもしれない。
死んでゆく人間にとっては、世間の評価などどうでもいいことである。
ただ、若い人にも乳癌があることを知って欲しい、検診して欲しい、死なないで欲しい、
そう思ったのかもしれない。
人間だれもがやがては死んでゆく。
本当に大切なことは、この大切な人生を生ききることである。
風は美しい、花は美しい、空は美しい。それを感謝して生きることを教えてくれたのは、
酸素カニュレをつけたまま苦しい息を吐きながらそれでも話をしてくれた彼女である。
彼女がA・V女優だったとしたら、それゆえにこそ一層強く深く、
彼女が最期の日々を見せてくれたことに私は感謝する。
→ http://plaza.rakuten.co.jp/atsushimatsuura/diary/200811190007/