「納棺夫日記」と「おくりびと」

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既に読了してますので、簡単な書評というか
ご紹介をさせていただきます。
アカデミー賞を受賞した「おくりびと」は
納棺夫日記」をベースにして書かれた小説です。


納棺夫日記』 (文春文庫・青木新門著)


納棺夫とは・・・
逝去された方の体を(アルコール消毒で)拭き、その死顔に化粧を施し
白い死装束を纏わせ、永遠の旅立ちに向かう故人の「旅立ちの支度」を
万全に施した上で、棺に納めるという仕事です。



著者が納棺の仕事を始めた昭和40年代には、
この葬儀関係の仕事(納棺夫以外にも斎場の火夫など)に対して
「死は穢らわしい」という誤解に基づく特有の偏見が蔓延してました。
その中で納棺の仕事に勤しむ著者は、親戚の叔父に絶縁を迫られ、
妻からは夜の夫婦関係を拒否され、挫折しそうになりました。



しかし、ある時偶然にも、昔の恋人の父親を納棺した際に、
その元恋人から「納棺夫」としての自分の仕事ぶりを、
感謝を込めて見つめてくれる涙で濡れた大きな眼差を見て、
納棺を誇りを持って一生の仕事とする決意をします。



納棺の仕事は、何度経験しても遺族の視線を一身に浴びるから
でしょうが、額が汗ばむことは避けられないそうです。
基本的には、著者が体験した納棺にまつわる特異なエピソードが中心です。
(棺桶爆発、独居老人の死体に沸く蛆虫、などなど)
いや、一般的な話の方が身近で感慨深くなりますけど。
ただ、第3章でしょうか、恐らく著者が信仰するところの浄土真宗
話になると、宗教に無関心な方や浄土真宗以外の信者には、
少々辛いところかもしれません。



分骨して自宅に遺骨を安置するのが珍しくなくなった現代では
流石に、このテの偏見は薄まったと思いますけど、
当時としては周囲の偏見の目が大変だった事が、
この本で容易に推測されます。
そう、葬儀でもお清めの塩を配ることも、ほとんど無くなりましたしね。
死は穢らわしい? とんでもないですね。
余談ですが、日本の仏式葬儀は例えば浄土真宗であっても
如何に宗派の教えから懸け離れた、俗習に塗れたものであることも
教えてくれます。


第3章に出てくる『われ閉眼せば加茂川に入れて魚にあたえよ』
浄土真宗を興した親鸞の言葉です。
つまり、浄土真宗にとっては「死は即往生(成仏)」なワケで
人は死んだら阿弥陀如来様に抱かれて、西方極楽浄土
往きて仏として生まれるんですよね。
つまり、死体(遺体)自体には何の価値もありません。
読経の内容も、慈悲深い阿弥陀様を讃える内容がほとんどです。
どんな悪人でも、南無阿弥陀仏を唱えれば、死後お浄土へ行けるのが
浄土真宗の教えです。 阿弥陀仏様の本願(十八番)なんですね。
親鸞にしてみれば、遺体なぞ魚のエサにでもしてしまえ!ってことです。
遺体に化粧をしたり、アルコールで拭いたり、遺骨を後生大事にすることは
本来の浄土真宗の教義上なら“何の意味もない” ことです。
事実、門徒衆の中には、仏壇はあっても先祖代々の墓はない方も
少なからずいらっしゃいます。 教義上、これでも可ですから。
まぁ、宗派によっては違いますが、浄土真宗門徒である筆者にとっては
ちょっぴり皮肉(苦肉)な面もあったのではないでしょうか。
それでも、ご遺族が納得して安堵して頂ければ良いと ・・・。
人間は理屈で何もかも納得する生き物じゃありませんからね。


納棺夫日記 (文春文庫)

納棺夫日記 (文春文庫)



おくりびと』 (小学館文庫・百瀬しのぶ著)


まぁ、何と云いましょうか、『納棺夫日記』自体が
冬の日本海(富山)の鉛色の空、雪、みぞれを背景にしつつ
仕事として他人の死に直面した著者の、深遠深刻な吐露を綴っているのに対して
そこまで余り深刻に考え込まさずに、その内容をライトな感覚で読ませる、
所謂 「納棺夫日記」の“翻訳版” みたいな感じでしょうか。
一般向けと言いましょうか。
とても読み易く、1日で読み終わる内容と分量です。


おくりびと (小学館文庫)

おくりびと (小学館文庫)