先人の尊い行い

競馬


トルコ軍艦、日本に 
エルトゥールル号事件125周年


日本とトルコが友好関係を築くきっかけになった「エルトゥールル号事件」から今年で
125年となり、在日トルコ大使館などによる記念行事が各地で開かれる。
ビュレント・メリチ駐日トルコ大使(58)は「両国の友好の礎となった歴史的事件を
思い出し、関係を深めたい」と話している。



トルコの軍艦エルトゥールル号は1890年9月16日、現在の和歌山県串本町の沖合で台風
により座礁、沈没した。海に投げ出された乗員ら500人以上が犠牲となるなか、漂着した
69人を地元の住民が献身的に救助。トルコで親日感情が高まる契機となった。

 


125周年を記念し、トルコ海軍は軍艦「ゲディズ」をエルトゥールル号と同じ航路で日本
に派遣。6月3日に串本町沖で洋上追悼式を開く。
ゲディズは同5日に東京の晴海埠頭に到着し、同9日の出港まで一般公開される。

 


6月5日にはすみだトリフォニーホール(東京・墨田)でトルコ・オスマン軍楽隊の
公演も行われる。



→ http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27H2N_Y5A520C1CR8000/



wikipedia:エルトゥールル号遭難事件


ええ話やね。
先人の尊い行いが、後の子孫を助ける結果に。


日本人を救出せよ!トルコ航空機決死のフライト



昭和60年(1985年)3月17日、イラン・イラク戦争で、イラクフセイン大統領は
48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は無差別に攻撃すると突然通告しました。
世界中がパニックになり、どの国もイランに取り残された国民の救出に全力を注ぎました。
日本はこの頃、戦争をうけてテヘランへの直行便はありませんでしたが、日本航空が救援機
を飛ばすことになりました。ところが、組合がこれに待ったをかけ、飛ばすことができなく
なったのです。

 


テヘランソ連のエアロフロート機は自国民を優先し、日本人の搭乗はすべて拒否。
オーストリア航空2機とエールフランス機、フルトハンザ機で40余名の日本人が脱出しま
したが、なお200人以上日本人が取り残されました。

 


伊藤忠商事の森永堯(たかし)氏はトルコのオザル首相と親しく、オザル首相に電話を入れます。
トルコ人を優先して救出するのは当然ですが、どうか、日本人をトルコ人と同じように扱って
くださいませんか。今日本が頼れる国はトルコしかありません」

 


トルコに援助を求めたのです。しかし、トルコ人も600名も取り残されていたのです。
オザル首相からは次のような返事がきました。
「オーケーだ。すべてアレンジするよ」「われわれは日本人に恩返しをしなければいけないからね」

 


オザル首相の指示を受けたトルコ航空は救援のパイロットを募ったところ、なんとその場にいた
全員のパイロットが手を挙げました。

 


タイム・リミットは19日午後8時20分。トルコ航空の一番機は午後3時にメヘラバードに到着。
198名の日本人を乗せて午後5時10分に離陸しました。二番機は17名の日本人を乗せ、午後
7時30分にメヘラバードを離陸し、イスタンブールに到着したのは午後8時20分でした。
ギリギリのところで日本人は救われました。

 


残されたトルコ人たちはトルコ大使館が用意した車に分乗し、陸路でイランを脱出し、トルコへ
向かいました。このことでトルコ政府に文句を言ったトルコ人は一人もいなかったといいます。

 


この頃、なぜトルコが自国民より日本人を優先して救出したのか、日本政府も日本のマスコミも
わからなかったといいます。駐日トルコ大使はその理由を短いコメントで表しました。
エルトゥールル号の借りを返しただけです」

 


明治23年(1890年)9月16日、トルコの軍艦エルトゥールル号和歌山県大島樫野先付近
で台風のため座礁し、機関が爆発して約500名の乗組員が死亡する事件があり、日本は生存者を
治療、看護し、イスタンブールまで送り届けたことがありましたが、トルコでは教科書にも載って
いる話で誰もが知っている歴史的事件だったのです。

 


平成11年(1999年)8月17日に発生したトルコ北西部大地震ではテヘランで助けられた
商社マンや銀行マンは義援金募集に奔走し、日本政府も迅速に緊急物資や無償援助の提供、
レスキューチーム、医療チーム、耐震診断の専門家、ライフラインの専門家が派遣されました。
横須賀から救援物資の仮設住宅を積んだ海上自衛隊輸送艦おおすみ」では出発前に艦長から
次のような訓示がありました。




トルコ共和国はイラン・イラク戦争のおり、危険もかえりみずに二機の航空機を派遣し、テヘラン
に在留していた邦人215名を救出してくれた。日本は、いまこそ、トルコの恩に報いなければならない。
トルコのひとびとの友情に応えなければならない。・・・
先達が遺してくれた日本とトルコの絆を断ち切るようなことがあってはならない。
さあ、すみやかに、トルコへ向けて出発しよう。トルコには日本の支援を待ち焦がれているひとびとが
いるのだ」

 


日本からの救援物資はトルコへ届けられ、仮設住宅は「日本トルコ村」と呼ばれ、ピーク時には
5000人の避難民が身を寄せました。ドアには日の丸が張られ、路地は「東京通り」「神戸通り」
などと名付けられました。


→ http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20120412/1334232564