米『失望』…、ローマ教皇庁を敵に回す気か?

競馬


焼き払い計画とローマ教皇庁終戦後も靖国神社が存続したことについて、
以下のような逸話が語られている。




昨年8月15日 筆者参拝時



戦後に日本を占領したGHQは、1945年、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立てていたが、
賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなっていた。そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあった
ブルーノ・ビッテル(Bruno Bitter、英語読みでビッターとなっている場合あり)神父とメリノール宣教会
のパトリック・バーン (Patrick Byrne) 神父に意見を求めることになった。



ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると
言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」とし、「靖国神社を焼却
する事は、連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」とまで言ったという。そして次の言葉で締め
括った。



靖国神社国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度
であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教ユダヤ教など、
いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられる
ようにすることを、進言するものである」
この進言により靖国神社は焼き払いを免れたという。バーン神父もビッテル神父と同趣旨の進言をした。
さらに1951年、ローマ教皇庁はあらためて1936年の「祖国に対する信者のつとめ」訓令を再確認している。



その後、1975年には真言宗醍醐派品川寺僧侶仲田順和(のち醍醐寺第百三世座主)が教皇パウロ6世に東京裁判
で戦犯となったものへのミサを行うことを依頼すると、教皇はミサを約束する。
パウロ6世は1978年に死亡するが、1980年5月21日、教皇ヨハネ・パウロ2世パウロ6世の遺志を引き継ぎ、
A級戦犯BC級戦犯として処刑された人々へのミサがサン・ピエトロ大聖堂で行われ、1618柱の位牌が奉納された。



wikipedia:靖国神社