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「韓国メディアが捏造記事で日韓スワップ破棄を非難し始めた」 
日本への恨み節を全開にする韓国メディアの卑劣


[韓・日通貨スワップ縮小]外国為替危機の時貸し出し金回収…難しい時薄情だった日本
キム・テグン記者



韓国と外貨調達'悪縁'
2008年金融危機当時にも通貨スワップ拡大要請拒絶



韓国は外貨調達問題に対しては「悪縁」という言葉がぴったりなほど日本とは良くない記憶をたくさん持っている。



最もつらい記憶は1997年の外国為替危機当時に遡る。外国為替保有額が底をつき、国家不渡りの危機に陥っていた
我が国には日本から借りた短期貸し出し金が220億ドルあった。ところが日本はこの中の130億ドルをその年に回収し、
我が国が国際通貨基金(IMF)に救済金融を申請するのに決定的な寄与(?)をした。
日本は特に1997年12月の1ヶ月だけで70億ドルを抜いていった。当時カン・マンス(姜萬洙)財政経済院次官(現・産銀
金融持株会長)が「必要な時の友人が真の友人」と訴えたが、日本側は「日本国内の銀行も国際決済銀行(BIS)基準の
自己資本比率8%を合わせて難しい状況」として背を向けた。



難しい時に薄情だった日本の形態は2008年のグローバル金融危機当時にも繰り返された。
危機の余波でドル調達市場が詰まるとわが政府はその年10月300億ドル規模の韓米通貨スワップで一息つき、続いて
日本にも既存の通貨スワップの規模を拡大してほしいと要請した。
しかし日本は「大規模スワップ拡大は困る」として身を守った。結局、わが政府が中国と300億ドルのスワップ開設に
合意し、これを根拠に日本を圧迫した後になって韓日通貨スワップ規模を300億ドルに増やすことができた。
元政府高位関係者は「普段はそのように協議がうまくいっているのに、困難な時になると違う言葉を言って、かっと
しないわけにはいかなかったよ」と言った。



日本は昨年10月には首脳会談で私たちの側の通貨スワップ拡大要求を快く受け入れた。
これまでの悪縁が解消されるようだった。当時は日本の円高現象を弱化させる効果もあって、日本も実利を取ったという
分析があるが、とにかくヨーロッパ発の危機で揺れる為替レートが安定を取り戻すのに助けを受けたのは明らかな事実だ。



しかし、去る8月に独島問題がふくらんだ後、日本政界が韓日通貨スワップ延長中断を言及して結局延長が失敗に終わり、
韓国と日本のドルの悪縁は続くことになった。



ソース:朝鮮Biz(韓国語) 入力:2012.10.09 22:23
http://biz.chosun.com/site/data/html_dir/2012/10/09/2012100902959.html



韓国人・朝鮮人を縛り付ける呪術『事大主義』


ウィキペディアWikipedia)』
事大主義(じだいしゅぎ)
 



大に事(つか)えるという考えと行動を表す語。
外交政策の1つでもある。
事大の語源は『孟子』の「以小事大」(小を以って大に事(つか)える)である。
孟子には越が呉に仕えた例が知恵として書かれている。つまり「小国のしたたかな外交政策(知恵)」というのが
本来の意味であった。しかし後世になると大義名分論と結びついて、「小国である自国はその分を弁えて、自国
よりも大国の利益のために尽くすべきである」といった「大国に媚びへつらう卑屈な政策」という否定的なニュアンス
を帯びるようになった。



漢代以降、中国で儒教が国教化されると華夷思想に基づく世界観が定着し、またその具現化として冊封体制、周辺
諸国にとっての事大朝貢体制が築かれることになる。



東アジアの歴史に於いて中国への事大主義と小中華思想は複雑な緊張・影響関係を保った。



冊封体制による外交を「事大外交」と呼ぶ場合があり、この意味では新羅・高麗・李朝など朝鮮半島に生まれた
王朝の多くは、中国大陸の中原を制した国家に対して事大してきたことになる。



しかし中国王朝への朝貢しつつも、新羅や高麗は中国王朝との対決や独自の皇帝号の使用なども行い、硬軟織り
交ぜた対中政策を取った。



しかし李朝の場合、その政策は『事大交隣』といわれ、事大主義が外交方針として強いものだったとされる。
李朝を開いた李成桂は、威化島回軍(1388年)の際に「小をもって大に事(つか)ふるは保国の道」と唱えて明
との開戦を決定した当時の高麗政権を倒し、明王朝を開いた朱元璋もこれに応えて李朝建国直後の1392年に
「声教自ら由らしむ」ことを条件に独立を保証する事を約した。



16世紀に朱子学の系統化が進むと、事大の姿勢はより強化されていく事になる。
つまり、冊封体制を明確に君臣関係と捉え、大義名分論を基に「事大は君臣の分、時勢に関わらず誠をつくすのみ」
と、本来保国の手段に過ぎなかった事大政策それ自体が目的化されるようになる。
こうした影響は李朝の内政面にも表れ、明人であればたとえ海賊であったとしても処刑することは出来ず、明へ
丁重に輸送しなければならなかった。そのため、後期倭寇と直接対峙した地方の武将達は戦闘のさ中に日本人と明人
の判別をつけるという難題に晒され、明人を殺害したとして処罰される者すら存在した。
こうした姿勢は李朝末期においてもなお継続され、清皇帝を天子として事大することを名目として、近代化に反対
する勢力が存在し、彼等は事大党などと呼ばれた。
対して近代化論者には欧米中心の世界認識と伝統的小中華思想を結合させ、清朝を侮蔑したものも多かった。



李朝の事大主義は伝統的な華夷秩序で合理化された。李朝における華夷秩序は、自らを中華に並ぶ文明国とする一方で、
政治的には明に事大する臣下と位置づけていた。17世紀、女真族清朝が漢族の明朝に取って代わり中原支配を確立
させると、李朝儒者たちはそれまで夷狄、禽獣と蔑んできた女真族に中華を継承する資格を認めず、李朝こそが唯一
の中華文明の継承者だと自負する一方、現実には清朝に抗い難く、丙子胡乱により仁祖は三跪九叩頭の礼をもって清
への臣従を誓わされることになる。



李朝の事大主義の実際の要因としては高句麗渤海滅亡後には朝鮮半島の諸国家には中原に覇を唱える中華帝国満州
蒙古の遊牧帝国に対し軍事的に防戦できず、また高麗の元への降伏以降は朝鮮独自の皇帝号の使用が厳しく中華帝国
から監視されるようになったため、事大主義を安全保障上も取らざるを得なかったことなどがあげられている。
李朝末期には政変が起きるたびに、清、ロシア、日本、アメリカなどさまざまな国に事大先を変え、国内の統一が取れ
なくなり、ついには日本との併合を余儀なくされることとなった。




韓国における評価


現在の韓国においては、高宗や閔妃の事大先を次々に変えた行動を、朝鮮の独立を守るためであったと評価しているが、
李朝末期はすでに独立国と呼べるような状態ではなく、崔基鎬や呉善花らのように、それを場当たり的な対応に過ぎない
と見る研究者もある。


韓国の朴正煕元大統領は自著『国家・民族・私』で、次の言葉を遺している。



「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった」
「姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない」
「わが民族史を考察してみると情けないというほかない」
「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。
 このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである」



朴は朝鮮史における事大主義を自覚し、自著『韓民族の進むべき道』で韓国人の「自律精神の欠如」「民族愛の欠如」
「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を批判し、「民族の悪い遺産」として次の問題を挙げている。



事大主義
怠惰と不労働所得観念
開拓精神の欠如
企業心の不足
悪性利己主義
名誉観念の欠如
健全な批判精神の欠如



wikipedia:事大主義



【追記】


明治維新の際、フランスが応援を申し込んだところ
西郷隆盛は毅然とこれを拒否し
『自分の国のことは自分達でやらなければならない』
のようなことを言ったという。
他国の干渉を避けて、日本人だけで明治維新(革命)
を遂げなければならない。
これは、先見の明と政治感覚に長けていたと評価すべきでしょう。
凡そ、事大主義とは無縁な日本人でした。